MOOV,TALK
次に託す社長の想い
事業承継への道標
経産省の調査では、全国で70歳を超える中小企業・小規模経営者が今後10年間で約245万人に達し、その約半数は後継者が未定だといわれている。現状を放置すると廃業が急増し、2025年頃までに累計で約650万人の雇用、約22兆円のGDPが失われる可能性がある。また技術やノウハウが消滅し、ものづくりの基盤に打撃がおよぶ可能性もある。とはいえ後継者の育成を考えると、事業承継自体には5年~10年はかかると言われており、早めの準備や計画が必要となる。今回は次世代への事業承継を考え、現在進行形でさまざまな取組みをおこなう企業の代表に登場いただいた。福地氏と村上氏はともに父の跡を継いだ2代目社長。会社を「継ぐ想い」と「継がせる側の想い」。その両方が理解できる2人が、自身の承継経験や円滑な事業承継のための計画、次世代に託す想いまでを心おきなく語っていただいた。
創業者の想いを引き継ぎ、次にバトンを渡す、その覚悟。
−おふたりとも創業者の跡を継がれて事業を維持され、まもなく後継者に道を譲るという立場にいらっしゃいます。まずは創業者である先代からご自身が継がれた頃のエピソードをお聞かせください。
福地 当社は父が創業者で、1961年にプレス加工からスタートしました。その2年後に冷間鍛造プレス機を導入してから業績が上向いて、10倍広い現在の場所へ移転。その後は高度成長の波に乗って成長を続けました。
村上 うちは少し変わっていて。先代である父は声楽家になるべく、大阪音楽大学の前身である大阪音楽学校で学んでいました。しかし在学中に時計の修理屋を営む祖父が急逝し、10人兄弟の長男だった父は生活のために跡を継ぐことになりました。当時は時計も海外製の機械式しかなく、中のギアもノコとヤスリを用いて手でつくる時代でした。
福地 ちょっと異色の経歴の持ち主ですね。
村上 そうなんです。その後、仕事が広がって測定器の製造から当社の歴史がはじまります。ここで培われた「きさげ技術」がのちに会社の命運を決めました。これは摺動面の精度をあげるために、平面度2ミクロンまで人の手で削り取る技術ですが、手間がかかるわりに儲からない(笑)。しかし価値のある技術なので、これは伸ばしていくべきだと感じていました。
福地 ものづくりの基本の仕事ですよね。私が継いだ頃は、決まった顧客から決まった部品を決まった工程通りつくる、そんな時代。言われた通りにしていれば仕事は順調に伸びるし、ほっておいても仕事がくるので営業担当もいない。その代わりに父は得意先とゴルフや飲みに行ったりが目立ち、私から見れば「経費を使う人」というイメージがあって(笑)。私は一所懸命ものづくりをすることこそが本業という考えだったので、「これがなかったら、もっと利益が上がるのに」と思い込んでいました。
村上 それなら私も「経費を使う人」ですね(笑)。まぁゴルフは仲良くなるためのひとつの手段です。得意先と打ち解けて話せる関係になると、おのずと仕事が増えますから。それも1.1倍とか1.2倍の話ではなくて。継いだ頃の売上が約2億5000万円に対して、今では11億6000万円と5倍になりました。
福地 そういう営業の大切さを分かっていなかったんですね。今振り返るととても恥ずかしい話ですが、注文をもらっても「うちはこういうやり方でしかできません」と断わることも多くて。
村上 実際自分が現場に立っていると、そうなるのもわかる気がします。
福地 当時の私はかたくなに自社のことしか見ていなかった。「一所懸命まじめにつくっていれば注文はくる」と信じて疑わず、なぜ短納期や価格低下を求められるのか分からなかった。そうしているうちにバブルは崩壊、顧客の視線は海外へとシフトし、昔ながらのやり方は通用しなくなった。そんなことを40歳になってようやく気がついたんです。
村上 先ほど私と福地さんのお父さんが、営業タイプで似ているという話が出ましたが、今のお話を聞くと福地さんと私の父も似ています。父も技術職で職人肌の人間だったので、自分ができる範囲の仕事しか取らない。ある人から「君のお父さんは、人に石橋を渡らせてからでないと渡れない人だ」と揶揄されたことも。とにかく新しいことに対しては慎重で、商売人ではなかった。それは私にとって反面教師になっています。
福地 父は創業者であり、冷間鍛造にいち早く目をつける先見性もあったけれど、私は上手く走っているものに乗っただけ。しかも右肩上がりの時代だったので疑問も持たずにきてしまった。
村上 技術があれば仕事は来る、という時代でしたものね。
福地 そうです。父はお客さんと仲良くしていたから、不景気でも助けてくれる人がいましたが、私には誰もいない。いざ営業しようにも誰に言えばいいのか、自分たちの何を売り込めばいいのかさえも分からなかった。
村上 そこからどうやって回復されたのですか?
福地 異業種交流会やセミナーに、積極的に出向くようになりました。
村上 それは大きな転換ですね。
福地 でもまだ甘くて、行けばすぐ仕事がもらえると思っていた(笑)。そこで「何ができるか」を問われて、何もできないことに気づいた。以来、人が集まるところに行って「相手が何を求めているか」を理解できるようになる努力は続けています。またそこで学んだことを、社員と一緒に考え前に進める社風も10年かけて築きあげました。村上さんはいつ頃、跡を継がれましたか?
村上 父が80歳、私が40歳の時に社長に就任しました。自分が父の跡を継いだときは、まさにバブルが崩壊した頃で4期連続赤字。父はこんな状態では息子に譲れないという気持ちだったようです。ところが税理士に「このままだと会社は潰れるから、君が社長になりなさい」と言われ、さらにリストラを勧められた。約20数名の従業員の約半数に辞めてもらいました。父は優しい人で、自分が抱える職人さんを切ることはできませんから。
福地 最初の仕事がリストラですか。会社の存続は絶対であり、リストラを選択するのも仕方ありませんね。
村上 5月に決算があって半期が終わった11月に私は就任したのですが、そこでようやく黒字に転じました。その後、大手自動車会社の関連企業に在籍する幼なじみから連絡があり、金型をつくって欲しいといわれたんです。それまで金型製作の経験はなかったのですが、日頃製造している数ミクロンという精度の部品に比べると難しいものではなく、短期間で試作品をつくりました。それが認められて、ようやく業績が上向いてきたんです。
自社の存在意義や自分の役割を考えることも、2代目の大切な仕事。
−すでに後継者を決められ、承継に向けてのステップを踏まれていますが、そこに至るまでの道のりは順調だったのでしょうか。
福地 跡を継ぐ予定の甥は弟の息子で、今25歳です。昔から父には「お前の子どもが跡を継ぐ姿を見るまでは死ねない」と言われていたのですが、40歳になった時点で子どももいないし、先ほどお話したように注文が大きく減ったのも重なって事業をやめることも考えた。父の言葉もあって自分の存在意義についても悩みました。「2代目の役割ってなんなのか、単なる中継ぎでしかないのか」と。
村上 2代目の存在意義ですか。
福地 父は「工場をたたんで駐車場でもすればいい。無理をするな」と言ってくれましたが、それだと一生、親のすねかじりですよね。「自分は何のために生きているのか」という疑問も湧いて。自分自身や会社の存在意義について悩み抜きました。一時は社員を育てて跡を継がせることも考えましたが、私が気負いすぎたのか上手くいかない。それが5年前の話です。
村上 なるほど。甥御さんは自分から継ぎたいと言ってくれたのですか?
福地 いや全然(笑)。高校時代にうちの工場でアルバイトをしたこともありましたが、デザインの専門学校に進んでからやりたいことができたようで。
村上 それをどうやって説得されたのですか。
福地 話を聞いてみると淡い憧れだけでその夢に進もうとしていたので、どんな商売でも大変なことはあるし個性も必要だということ、そして自分がどういう想いで会社を経営しているかを、折を見ていろいろ話しました。どうせ商売をするのなら、この商売も面白いことはたくさんあると、切々と書いた手紙を渡したりも。やっぱり会社を継ぐ人は、夢を託せる人でないといけませんから。そんな説得を続けていくうちに、ついに甥が根負けして、3年前に入社が決まりました。
村上 プレッシャーきついですね。うちも相当かけてますが(笑)。私自身、社長に就任するまでは専務として経営に関わってきましたが、実際なってみると専務と社長では立場や責任が全然違うと実感しました。ですから息子には少しでも早く社長のポストに就かせて、このプレッシャーを体験させたいと考えているんです。
福地 息子さんは今おいくつですか?
村上 30歳です。長男には「会社を継いで欲しい」と伝えており、彼も大学を卒業してから5年間は得意先で修行してきて、今は現場で2年ほどものづくりを学んでいます。
福地 とても理想的な承継のステップを踏んでいるように見えますが。
村上 そうなのですが、どうしても親の目から見ると気楽そうに見えてしまうんですよね。それと息子はゴルフをしたがらなくて(笑)。私は顧客と休日を一緒に過ごしながら、次の商談を決めるという営業のやり方で、事業を拡大してきました。現場を知ることももちろん大切ですが、トップには取引先とのつきあいや営業的な動きが求められますから。そこで福地さんに質問です。私は息子に跡を継がそうと思っていますが、経営能力がある人とない人がいます。もし息子にそれがないのであれば、ほかの社員を後継者にしてもいいと考えているのですが、どう思われますか?
福地 私もそうすべきだと思います。「会社は何のためにあるか?」というと、それはまず社員のためですから。
村上 おっしゃる通りです。
福地 自社の存在意義について考えたとき、創業者である父の時代であれば、それは「自分の家族を養って幸せにすること」だったと思うんです。そこを「社員の幸せのため」まで広げることが、2代目である私の存在価値かなと。次の3代目にはさらに「社員の家族の幸せのために」まで持っていって欲しい。それが会社の成長にもつながりますからね。
環境整備や人材育成は、将来の成長に向けた「次世代への布石」。
村上 福地さんは最近工場を増設されていますが、これもやはり甥御さんのためですか。
福地 そうです。私は工場を遊び場のようにして育ち、若い頃から現場を知っています。しかし甥は違う。そのためにはまわりに応援してもらえるような環境が必要。まずは彼自身が現場で頑張る姿を見せ、次にスタッフを育てること。ですから採用と教育が欠かせません。しかしものづくりの現場に若い人に来てもらうのは難しい。せめて工場を改装して環境整備しようと思っていたところに隣の土地が空いたので、そこを拡張して新工場を開設し、50年先も存続できるような場所をつくろうと考えたんです。
村上 世代交代にあたっての次世代への布石ですね。
福地 会社を継ぐべき者は、自分の役割を考えることも必要です。私は先代から50年間何もせずにやっていける設備を引き継いだので、次の50年のために投資したわけです。10年20年経った頃に、「この工場を建ててくれてよかったな」と思ってくれれば。そして彼が次世代を考えるようになったときには、自分で何に投資するかを決めて欲しい。
村上 環境整備に関していうと、当社も現在の工場の横にあるテクノフロンティアの一角を借りて操業していましたが、事情があって来年3月までに退去することになっていたんです。そこで場所を探したところ、奈良に約2300坪の土地を見つけまして。まもなく工事に着手する予定です。
福地 2300坪ですか! それは凄いですね。
村上 よく父が「鉄工所はデンボ(できもの)と同じで大きくしたら潰れる」と言っていましたが、時代の流れは昔と違いますし、組立技術は広い場所が必要です。なぜ組立工場なのかというと、当社の強みである「きさげ技術」はリーマン・ショック以降、大手企業の内部では失われ、現在では自社で高精度の機械を組めない状態になっています。そのおかげで名だたる工作機械メーカーからの製作依頼が続いています。今、場所があればその仕事を受け入れることができますし、おのずと売上もついてくる。だから今がチャンスなんです。移転を急いだのは、息子が就任してすぐにこういった大事業をするのは大変だからです。農地がなければ作物は育ちません。もちろんつくるのは人ですが、せめて農地は用意してやろうと。
福地 親心ですね。人材育成はどうされていますか。
村上 現在、当社の主力となっているのはベトナム人なんです。50人の従業員の半数以上がベトナム人です。彼らは優秀な大学を出た人ばかりで、頼もしい戦力に育っており、彼らが息子の右腕になることを願っています。
福地 従業員によく言うのは「工夫や発想、アイデアで役に立とう」ということ。最先端の技術はなくとも、うちの社員が一所懸命考えたことが、誰かの役に立つ場面は必ずあると思うんです。そのためには基礎が必要になる。だから今、将来甥をサポートしてくれるであろう20代の社員が中心になって、毎朝就業前の30分を使って「勉強会」をしています。
村上 時代の流れは早く、日々特殊な技術が生まれており、さまざまな最先端の知識が求められます。高付加価値な仕事に挑むために、人材育成は最重要課題です。私も就任してからは、月曜朝の全体会議のあと勉強会を開いています。今年3月に、航空宇宙品質マネンジメントシステム規格「JISQ9100」の認証を取得したのも勉強の一環です。従業員全体の知識を高めることで、その仕事が取れなくとも準ずる仕事は必ず取れますし、個々の成長にもつながるのでこの勉強会は大切にしているんですよ。
福地 私は今年で62歳になりますが、70歳で引退を考えています。村上さんはどこまで責任を持とうと思われていますか?
村上 70歳で勇退ですか。そんなにはっきりと決めてらっしゃるんですね。
福地 あと8年の間に、後継者が自分たちで考え次の方針を決めて進んでいってもらいたい。そのためにはきっちり期限を定めることで、彼らも目標を立てやすくなります。それと顧客からみたとき、社長がある程度若くないと不安だろうというのもあります。
村上 現在私は59歳で、最終的には福地さんがおっしゃるように、70歳くらいまで頑張らないとダメかなとは思っています。
ものづくりの姿勢や想い、挑戦することの面白さを伝えたい。
−承継、すなわち「継ぐ」ということは、企業の運営を続けていくことでもあります。企業が続いていくためには何が大切だと思われますか?
福地 当社は冷間鍛造がコア技術ですが、どの会社でもこれさえあれば絶対安泰という技術はないと思っています。この仕事を40年やってきて、いくら計画を立ててもその通りに進まないことも分かった。ですから変化に対応する姿勢こそが大切。状況を見て知恵を出し合い、相手によって役立ち方をフレキシブルに変えることができる運命共同体と思える社員がいる限り、会社は潰れないと考えています。「持っているもの(考えや行動)は出せ」とよく言うんです。手を抜いたりいい加減なことをするなと。まじめにお客さんのことを考えて努力することが、なにより大切です。
村上 それと組織力ですね。私が就任したときには、父の代からいた方々を差し置いて、自分が育てた部下を引き上げて組織を再編しました。だから団結力もあり、業績も右肩上がりで伸び続けました。リーマン・ショックのあと大手の仕事がなくなったときも、従業員のなかから自発的に「ISOを取得して、いろんな仕事を取ろう」という声が上がりましたから。
−最後に後継者に託す夢や想いをお聞かせください。
福地 村上さんの会社のように大手企業と取引したり、ロケットに関わる仕事をされているのは夢があって非常に羨ましい。小さなものづくり企業は夢を持ちにくいですから。でも、ふと考えが変わった時があって。朝礼である社員が「家族で焼肉に行くのを娘がとても楽しみにしている」という話をしたんです。せめて焼き肉を月イチで行けるようにしてあげるくらいはできる。そんなちっぽけなものでも、夢を持つことは生きる力になる。甥にも、そういう気持ちを聞いてあげられられる人間になって欲しい。
村上 自分が製作したものを展示会で見て誇りに思うとか聞きますが、そんな華やかな部分だけでなく、個々のものづくりで精度の高いものに取り組んで達成したときこそ、職人冥利に尽きると思うんです。それと私は仕事=挑戦だと思っていて。できないと言ったらお終いで、どこかで必ず誰かがやっている。自分たちも努力すればできるはず。だから絶対NOとは言わないチャレンジ集団でいたいし、それは息子にも忘れないで欲しい。
福地 そうですね。村上さんとスタンスは同じです。私も冷間鍛造の世界では、少量や短納期を絶対できないと言わない。そこで負けたら、自分たちの居場所はないですから。厳しい条件でもいかに工夫できるか。加工・溶接・金型の会社、みんな同じ想いでものをつくっています。
村上 それはすごく共感します。私たちもそういう想いでずっとやってきましたし、今後もその想いがなくなったらダメだと感じています。
福地 先日89歳で父が亡くなりました。つい昨年まで「お前のやり方では会社は潰れる」と言われ続けていた。私も甥を見ているとあれこれ言いたくなるので、親からすると子どもがいくつになっても不安な気持ちはわかるようになりました。でも70歳になったら、もう絶対に口出ししません。ただ創業者の努力や親戚やいろんな人の応援があってこそ、今の会社があることを忘れないで欲しいですね。
村上 同じようなことですが、会社があるのは従業員のおかげ。経営者になっても天狗にならず、思いやりのある経営をして欲しいと思っています。
福地 「私は好きだからこの仕事をやっている」とよく甥に言っているんです。まずは仕事を好きにならないとダメ。誰かのための仕事では、言い訳になる。好きになればおのずと責任も持てますし。
村上 まったく同感ですね。仕事を好きになることが大切だと思います。それが根底にあればこそ、取引先からも信頼を得られるはずですから。